マルクス理論を活かしてグローバルな資本主義の現実と対峙する知識人――デヴィッド・ハーヴェイの日本滞在に同行して
大屋定晴(北海学園大学、社会経済学、グローバリゼーション論)
デヴィッド・ハーヴェイは世界的に著名なマルクス研究者であり地理学者です。その彼が2017年10月21日から29日にかけて来日し、京都と東京で講演を行いました。私も彼の著作の翻訳に関わった縁から、今回の日本滞在に同行することになりました。
同時代を理解するツールとしてのマルクス理論と新自由主義批判
ハーヴェイはその研究者人生を地理学者としてスタートしました。しかし、1960~70年代のアメリカの公民権運動や都市暴動に直面し、ラディカル地理学の構築を模索しはじめます。そして都市空間の形成過程を研究する中で、マルクスの諸著作にたどりつきました。
1982年に刊行されたハーヴェイの大著『空間編成の経済理論』(原題『資本の限界』)は、マルクスの『資本論』、『剰余価値学説史』、『経済学批判要綱』を読み解く中から、資本の矛盾した運動の中で金融拡大と都市建設とが並行することを分析し、その過程で金融破綻と局地的経済危機とが引き起こされることを論証しました。それゆえ彼は、1990年代には『資本論』研究者としても専門家のあいだで知られていました。
しかしハーヴェイがマルクス理論に接近した理由は、自分の生きている現実を理解するツールとしてそれを活用することにありました。彼の関心は、つねに同時代の社会的、政治的、経済的事象に向けられています。ですから彼が2005年に『新自由主義』を発表したのも驚くにはあたりません。
ハーヴェイは新自由主義を、1970年代から世界的に本格化する一つの政治的プロジェクトだと考えます。その目標は「階級権力の回復」にあります。新自由主義は、思想と政治的実践の両面にわたって、資本主義的な階級支配構造を再建させ強化させるものだと言うのです。一方では、1970年代以降、私的所有権や自由市場や自由貿易をたたえる考え方が、新自由主義的なシンクタンクや知識人の言葉などを通じて流布されます。「小さな政府」、「規制緩和」、「個人の自由」、「良好なビジネス環境」といった表現が言論界や政財界を支配し、徐々に人々の常識になっていきます。ですが他方で、この考え方を現実に実践するには政治権力が不可欠です。そこでハーヴェイは「新自由主義国家」という言葉を使って、新自由主義的な実践が国家の強制力をもって遂行されたことに着目します。具体的に言えば、私有化/民営化、金融化、国家による逆再分配政策(たとえば最高所得税率や法人税率の引き下げ、消費税の導入・引き上げなど)、経済危機の国際的管理などは、人々の社会的資産を富裕層に「略奪」させやすくする政策手段です。世界各地での格差拡大こそ新自由主義の実態だとハーヴェイは主張したのです。この本は世界的に反響を呼び、日本でも専門家を超えて多くの読者に読まれました。
資本主義との対峙は、現代の社会運動の共通の課題――最新邦訳書『資本主義の終焉』で述べられていること
現実理解のためのマルクス理論の発展的な活用――こうしたハーヴェイの姿勢は、2017年に邦訳が出版された『資本主義の終焉』(原題『一七の矛盾と資本主義の終焉』)でも変わりがありません。
この本の目的は「資本主義の経済エンジンが実際にどのように動いているのか」を理解し、「この経済エンジンが交換されるべきだとすれば、それはなぜなのか、そして何と交換されるべきなのか」を示すことにあります。そこでハーヴェイは「資本の一七の矛盾」を「基本的矛盾」、「運動する矛盾」、「危険な矛盾」の三つに分類し、それぞれ詳しく検討していきます。
そこから見えてくるのは、一つには今後の資本主義経済の展望です。たとえば、お金儲けを無限に続けようとする資本は、永遠の「複利的成長」を追い求めます。ですが、この「成長」は、新自由主義による賃金カットや人口成長の限界によって商品が売れなくなる場合など、さまざまな物質的困難に直面します。やがて資本は、本当に必要な経済活動とは無関係な分野に投機的に投資されるようになり、一方では環境危機を悪化させ、他方では公的債務や資産バブルの膨張と崩壊とを繰り返していきます。これは「少子高齢化」の中で「名目GDP600兆円」を実現しようとする「アベノミクス」がどうなるかを考えるさいに参考になるかもしれません。
しかし、この本から見えてくるものがもう一つあります。それは「資本主義の終焉」の「方向性」です。ハーヴェイは、この「終焉」は自動的に訪れるものではないと主張します。それは社会運動といった人々の実践によって初めて可能になるのです。近年のアメリカやイギリスでは、20代、30代といった若い世代を中心に、資本主義に「反対」するとの意見が世論調査で多数となっています。このことを念頭に彼は、それではいかにして資本主義への反対を実行に移すのか、と問うのです。すると私たちの社会には、この世界を少しでも変えようとするさまざまな運動がすでに存在していることに気づかされます。労働運動や反貧困運動、反差別運動はもとより、「地域通貨」の実験、「脱成長」論、あるいは環境破壊や商業主義的文化への抵抗などです。ハーヴェイは、資本の諸矛盾を考察することで、これらのオルタナティブ論や社会運動に実際には「内的つながり」があることを主張します。一見資本と無関係な社会運動であっても、資本の運動と対決しない限り、それぞれの問題を解決することはできないのです。だからこそ「資本主義の終焉」は、今現実に存在する社会運動にとって――無自覚ではあれ――共通の課題となっているのです。資本主義に「反対」する若い人々は、こうした自覚をもってさまざまな社会運動とつながっていくべきだとハーヴェイは考えています。
新自由主義は終わっていない――マルクス理論を活かして明らかにされた資本主義の現段階
ハーヴェイの執筆意欲に衰えはありません。彼は、今回の来日直前の2017年9月、新著 Marx, Capital and the Madness of Economic Reason(作品社より2018年邦訳出版予定)を刊行しました。2017年はマルクスの『資本論』第一巻刊行150年にあたる年でしたが、それを機会にマルクス理論を、現実理解のためのツールとして簡潔にまとめなおそうとしたのです。
実際、今回の滞在中に開催された講演会のテーマは大きく二つにまとめられます
その一つは、彼のこの最新刊を紹介するものでした。ハーヴェイによれば、マルクスの『資本論』体系は資本の総体性を捉える試みだとされます。資本は、自然や人間を利用しながら、その循環と螺旋状の増殖を試みていきます。その循環を動かしているのは、「生産」における資本主義的企業活動であり、価値の「実現」のための公共投資や生活様式の改変であり、貨幣を通じた「分配」にさいして貸付を行う金融機関です。こうした循環図式をマルクスの諸著作は提示しています。そしてそれは労働問題、消費者問題、あるいは公共政策上の諸問題ばかりか、公的債務問題や学生ローン問題などさえも、資本を中心にしてつながっていることを教えてくれます。
他方、講演のもう一つのテーマは、新自由主義の現状についてでした。今回の彼の主張は、2008年の金融危機を経てもなお新自由主義は終わっていない、というものです。金融危機の前後に住宅差し押さえを被ったアメリカ人の多くは、自分に起きたことを、ローンを借りた自分のせいだと思っています。まさに「自己責任」論が常識となっています。その意味で「新自由主義的人格」は私たちの考え方の奥深くにまで根づいているのです。そして経済危機を経ても格差は拡大しつづけています。たとえば金融機関や大企業だけを救うために庶民から「強奪」する行為はつづいており、ギリシャ債務問題のように国際的規模で繰り返されています。新自由主義は、思想的にも政治的実践としても生きながらえており、それとどのように対峙するかは、依然として私たちの課題なのです。
あらゆる問題はグローバルな資本の活動と関わりがある
1935年に生まれたハーヴェイはすでに80歳を超えています。しかし、今回の来日にさいして出会った彼は、とてもその年齢を感じさせませんでした。一般市民にも公開された京都での講演会は、その前日に台風が上陸したことから、交通網に大きな混乱が起こりました。ハーヴェイ自身もそこに巻き込まれ、本来15分で着くところを1時間半かけて会場に到着しました。ところが彼は疲れも見せることなく、190名近い参加者を前に一時間近く立ったまま話しつづけたのです(この講演の概要は『Courrier Japon』にもネット記事として紹介されています)。
さらに印象的だったのは、参加者との質疑応答でした。原子力エネルギーについて問われると、彼は「このエネルギーは人々の必要性を経済的に満たすものではない、だが、にもかかわらず原子力が利用されつづけている、この事態はエネルギー多消費型の生活様式と資本の活動との関連から検討されなければならない」と答えました。また大学生から「奨学金」問題について質問が出されました。するとハーヴェイは「自分の年金基金も学生ローン会社に投資している」と資本主義的金融メカニズムの中での絡みあいを指摘し、金融危機が起こると「自分の年金受取額が減るので困るのだが」と会場内の笑いを誘いながら、自分の年金が削られても学生ローンは帳消しにし、教育の「脱商品化」を進めるべきだと答えたのです。このようなやりとりは、私たちの問題が、グローバルな資本の活動と関わって世界の人々のさまざまな課題とも重なっていることを示唆しています。
最後に別れるさいハーヴェイは私に言いました。「ニューヨークか、日本か、世界のどこかでまた会いましょう」。握手を交わして去っていく彼の後ろ姿を見ながら、私もまた、日本の現実理解のためのマルクス理論とは何か、そして日本における新自由主義といかに対峙するか、改めて自らの課題にしなければならないと思ったのでした。
(了)